新視覚新論
【重要】
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■商品説明
「外なる世界と内なる心、という分別は誤りだと思う」
見たり聞いたりする知覚の風景が自分の「心の中」にある心象風景だと感じる人はまずいないだろう。しかし、痛みや気分、悲喜の感情、思い出や希望、空想や妄想、そして意志といわれるもの、これらはまぎれもなく自分の「心の中」のものだ、と人は感じている。
しかしそれは、人が抱く根本的な事実誤認ではないか?
世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく、回想や希望も現在も、常にひとしく四次元の全宇宙世界の立ち現われなのである。
このことを、光学虚像や幻覚・幻像、時間と空間、幾何学、芸術、自由と意志などさまざまな角度からていねいに論じる。陥りがちな誤解をほぐしながら、日常と科学を重ねながら、「世界の一項目としての私」を「世界のあり方としての私」に組み変える。
世界そのものが、悲しく喜ばしく恐ろしい。
こうして「私」は抹殺され、私が復元されたのである。
解説: 野家啓一
本書の原本は『新視覚新論』(東京大学出版会、1982年)です。
【目次】
1 見ることと触れること
2 見えている
3 何が見えるのか
4 「表象」の空転
5 鏡像論
6 過去透視と脳透視
7 空間の時間性
8 自由と「重ね描き」
9 言い現わし、立ち現われ
10 心
【著者】
大森 荘蔵(オオモリ ショウゾウ)
1921~1997。岡山県生まれ。東京帝国大学理学部物理学科卒業、海軍技術中尉となる。哲学を学ぶため、戦後に同大学文学部哲学科に再入学。卒業後、数度のアメリカ留学を経て、東京大学教養学部教授、放送大学教授を歴任。時間、自我、知覚などにおいて独自の哲学をうちたて、多くの後進に影響を与えた。
【解説】
野家 啓一(ノエ ケイイチ)
1949年生まれ。哲学者。専攻は、科学哲学。東北大学名誉教授。
■著者
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